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辻耀子(つじようこ)です。 さて。突然ですが、 「あなたは自由です!」 …もしも今、 不自由さや生きづらさ、 きゅうくつさ、 『自分の人生への違和感』を 感じているならば、 今日のこの内容、ぜひ読んで下さい。 そして、ぜひ思い出して欲しい。 「あなたは、今、自由じゃないと 思い込んでいるだけかも知れないよ?」 …人間は誰でも、 深刻になったり、思いつめると 視野が狭くなるものです。 そうすると、どうしても 脳みそや考え方までが、 ガチガチに凝って硬くなり、 柔軟さがなくなってきます…。 その上、忙しかったりすると、 『心を亡くします』。 (『忙』という字って、 「心へんに「亡くす」と書くものね。) というわけで…。 じゃあ、『自由』って何やねん? っていう話になるわけだけれど…。 なんと!カンタン! 「今自由じゃない」と悩んでいる人は、 「今、自分にはチョイスがある!」 と思い出すだけで、一瞬にして 自由はあなたの元に戻ってくるのです。 「は?辻さん…禅問答ですか…?」 いえいえ(笑)。 ホント、ホント♪ よ~く考えてみてっ。 あなたは今、目の前の事を 「やってもいい」し、 「やらなくてもいい」。 「続けてもいい」し、 「やめてもいい」。 ホントですよ? 犬やネコ、動物を見てみて下さい。 昆虫も、バクテリアも、 鳥も魚も…。 みんな、自由気ままにやっている。 人間だって動物だもの。 好きにしていいんですよ♪ ついつい、私たちって 毎朝同じ時刻に目覚ましかけて 起きているうちに、 『思い込み』が生まれ、 自分の心に『わく』を作ってしまい、 「自分も動物であり、自由なのだ」 という事を忘れてしまっている だけでね!(^o^) 「…え~、でも辻さん、 そんなの詭弁(きべん)ですよ! だって、嫌な事でも やらなきゃしょうがいもの!」 いや、本当にそうかな? ぜひ、ここを疑ってみて。 本当にやらなきゃいけないかな? たとえ今はやらなきゃいけない としても、1年後はどうかな? 2年後は? …いや、やらなくていい。 あなたは、あなたの人生の操縦かんを 自分で握っていい。 だから、もしも1年後、 それをやめたいなら…。 今すぐ「やめるための準備」をしよう!(^o^) 何をどうすればいいのか、 頭の中で思い浮かべましょうヨ♪ ついでに 「どうなっていたいのか?」 も思い浮かべようよ~、 まずはそこからスタートですっ♪ …あ!ついでに言っておきます! ここで間違っても、 「1年後には1億円稼ぐ人になる!」 など、 手の届かない、リアリティのない 事は思い浮かべないで下さいね。 (1億円を思い浮かべていいのは、 今、それが手の届く段階の人のみです。) 私は「叶わない夢」の話じゃなく、 実現可能な事の話をしたいのです。 「宝くじ当てた~い」 なんて言ってるヒマがあれば、 「宝くじなんてどうでもいいわ! 今の人生、サイコー!(^o^)」 って言ってるアナタになればいいんです! 大丈夫、いけます。 あなたの『思い込み』のわくを 解除して、周囲を見回してみればね! (あ!『わくを外すのは難しい』 っていうのも、『思い込み』ですよ! …だんだん今度は『とんち』 みたいになってきたけれど(笑)。) 話を元に戻します。 階段は、一段ずつ上っていけば 必ず、2階に到達できるのです。 「辻さん、そんなの分かりきってます、 当然です!」 そうだよね? なのに、いきなり手の届かないような 『1億円稼ぐ!』とか、そういう事を 思い浮かべる人というのは、まるで、 「辻さん、1階から2階へ、 さっきからジャンプを試みてますが 一向にうまく行きません!」 と訴えてくる人と同じなのです。 「え?一段ずつのぼれば? そうすれば、2階にいけると思うよ?」 といくら私が言っても、 「いや、ずっと頑張ってるけど いけないんです!努力してるし、 行動もしてるんですけど!」 といい続ける…。 そして、相変わらず 『1階から2階へ、一気にジャンプ!』 という事にトライし続け、 「ああ~っ、今回もダメかぁ…」 と言っている…。 確かにこの人は、 努力も行動もしてるでしょう。 でも…。 さぁ、あなただったら、この人に どうアドバイスします? 「う~ん、あなたの努力と 行動のしかた、不適切かも?」 きっと、そう言ってあげるのでは? ねぇ? きっとそうだよね…。 この話の、 『1階から2階へ』というのは、 「あなたが今いるところから、 あなたが到達したい場所へ」 という意味のたとえです。 たとえばあなたが今の仕事を やめたくて、でも「やめられない」 と思い込んでいるのであれば、 まずは、その事実を 疑ってみる事からスタート。 「あなたは自由です。」 そう、あなたにはチョイスがあります。 チョイスがある、という事は 『自由である』という事と同じ意味です。 そして、今すぐはムリ!という 場合でも、「じゃあ1年後は?」 「2年後は?」と考えてみて。 あなたは選べます。 欲しい状況へと進むために、 今から手を打つことも出来ます。 …というわけで。 それでも「いや、私は自由じゃ ないです」といい続けるアナタヘ。 今日は、愛と応援をこめて、ダメ押し! 実は、私には、 自由に身体が動かせず、 自由に行動が出来ない、古い友人がいます。 その友人、元々は元気だったんですよ。 ところが、最初は、誤診によって 『病気』と診断され、 医療ミスによって 身体が悪くなったのです。 もう20数年、この状態です。 どんどん悪くなっています。 間もなく、亡くなるでしょう。 でも、きっとあなたは違うはず! あなたは自由に行動できる、 チョイスが出来る。 その可能性が開かれているはず! ならば、それを 「私には、ない。」と 思い込まないで…。 ムリヤリ諦めることもないし、 あなたって、おそらく、 あなたが思うほど、無能じゃない。 けっこう色々やれちゃうと 思うんですよ♪ よかったら、私に騙されたと思って、 今日だけは、 『どっちも選べる自分』を 探してみて♪ 楽しくゲーム感覚で探していくと、 意外と見つかるはずです、 『チョイスがあるぞ!』って事が♪
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【大人になってから、気づきました(笑)。 この地上には、ドラえもんがいっぱいいる事。】
辻耀子(つじようこ)です。(^o^) 今日は、懐かしくて、とても大切な思い出の話。(実話です。) 「お姉ちゃん、ちょっとちょっと!」と呼び止める声がした。 振り向けば、見知らぬ喫茶店。 見知らぬおばちゃん。 おばちゃんは言った。 「ちょっとおいで!中入り」 大阪のおばちゃんのパワーと迫力はすさまじく、 (ケンミンショー でご存知の通り…(笑)。) 大人しかった私はNOが言えず、 おどおどしながら喫茶店に入った。 そうしたらおばちゃん、私をカウンターに座らせて、 目の前にホットケーキを3枚も…。 ホイップクリームとさくらんぼもついていた。 おばちゃんは、不必要にでっかい声で、 まるでどなるように、早口でこう言った。 「おねえちゃん、山口百恵にそっくり! おばちゃん、百恵ちゃんの大ファンやねん! よ~来てくれたっ、食べていって!」 …私は正直、極度の緊張とおびえの中、 頭がまっ白になっていた。 でも、食べた。 食べなければヤバい。…そう感じたから。 大人になってから、時折、このエピソードを思い出す。 当時の私は、中学2年生でした。 (…ちなみに私は、山口百恵にまったく似ていません(笑)。 けれど当時は、よっぽど雰囲気が似ていたのか、 「百恵ちゃんに似てるわ~」とよく言われていた。 今の私と、雰囲気は別人ほど違うと思う。) 私は暗くて大人しい子で、 スラムと呼ばれる街の片隅で、 息を潜めて怯えながら生きてました。 友達がおらず居場所がなくて、 でも学校以上に家の中はきつくて、 独りで街をとぼとぼと徘徊していた。 おそらく、そんな私は喫茶店のおばちゃんの目に、 「ひもじくて、帰る場所のない、 ガリガリの不幸な子供」 に映ったのだろう。 だからおばちゃんは、私に『ごはん』を… 『栄養』をくれたのです。 「いや~ん、百恵ちゃんがうちのお店に来てくれた~、 今日は嬉しくて嬉しくて寝られへんわぁ~」 「いやっ!全部食べてくれたんや! ジュースのおかわり、いる?」 おばちゃんの顔は、思い出せないです。 でも、声とセリフは覚えている。 体型は、ドラえもん体型でした。 そのお店のカウンターの風景も、 カウンターの端に置かれていた ひまわりの造花のことも覚えています。 あの時のおばちゃん、今も喫茶店を やってるんだろうか…。 今だったら、『こども食堂』をやりたい人かも知れない。 …昨日、立ち寄ったオシャレなカフェで、 思いがけずサプライズで頂いたケーキを食べながら、 久々にしみじみ、 このおばちゃんの事を思い出してました。 思えば、私の人生には何人も、こんな 『ドラえもん』みたいな大人が登場して、 私をピンチから救ってくれました。 ごくごく、さりげなく。 だから、右も左も分からないような子供が 起業しても、どうにかなったのです。 (…もちろん、逆の大人も多かったです。 私を騙し、利用し、脅し、搾取した大人たちも。 何しろ、ヤのつく人の街・大阪ですし、 犯罪率が全国No.1の地区に暮らしていたから…。) そうそう。いきなり話は変わるんですけど、 脳科学によるとね、 人間って、いい思い出よりもつらかった事を、 脳みその『いつでも取り出しやすい位置』に 置いているんですって。 (なぜなら、自分の生命を危険から守るために、です。 だから危険な事、ネガティブな出来事は しっかり覚えているし、 二度と同じ目に遭わないためにも、なかなか忘れない。) けれども、よかった事やスムーズにいった事は すぐに忘れていく…。 たとえば、一週間前の朝、何を食べたのかは なかなか思い出せない。 なぜなら、「当たり前に、スムーズに行った 平凡な日常の出来事」だから…。 (ごはんを食べられるのが「当たり前」になってる 日本に暮らしているから…。) でも、嫌な事、ムカついた事、悔しかった事、 傷つけられた事は、いつだって 脳の『取り出しやすい位置』に置いてある。 (これは性格の問題ではなく、本能のしくみ。) 私だってそうです。 理不尽な目に遭った。…その悔しさをバネにして、 踏ん張って生きてきたつもり。 …そして…。今振り返ってみれば、思うのです。 「ああ、ドラえもんみたいに、 手を差し伸べてくれた大人がいたなぁ…」 そっちのエピソードは、普段はあまり思い出さない。 (なぜなら、本能が、反応しないからです。 別に思い出さなくても、いのちを守る事に無関係だから。) 当時の、中学2年生だった私は、 ホットケーキの味を覚えていません。 感謝なんて、まったく感じられませんでした。 ただ、おばちゃんの大きな声が怖かった。 食べなければ、店から出してもらえないって おびえて食べた。 そして、「助けてくれようとしたんだ」と 気づいたのは、20歳の後半。 …でも、それでもまだ、感謝なんてなかった。 なぜなら、まだ必死でもがきながら 人生を生きていたから。 生きる意味も分からず、しんどくて、 でもやるしかなくて、がむしゃらだったから。 …あれから30年ほど経ちました(笑)。 昨日は、人生で2度目の、 「ケーキをもらえた日」でした。 ちょうど終戦記念日。(これは単なる偶然だけど…。) 仕事帰りに立ち寄ったオシャレなケーキ屋さんで、 人見知りっぽい雰囲気の、 年季の入ったパティシエのおじさんが、 ケーキをプレゼントしてくれた。 「自分で言うのもなんやけど、 これ、朝一番からめっちゃ張り切って焼いてん。 おいしいと思うねん。 けっこう自分でも自信作やで。 …食べてみーへん?」 …ビックリするほどおいしかった…!!! 昨日の『ドラえもん』おじさんは、 「かわいそうな私」にケーキを恵んでくれたのじゃなく、 頑張ってきた私に向けて、 同じく頑張ってきたおじさんが 「お互い、今日もお疲れさま♪」 という意味で、粋なプレゼントをしてくれたのだと思う。 おじさん、わざわざ、 私が全部食べたかどうか、そーっと カフェスペースまで確認しに来ていました(笑)。 バレないように、そーっと。 私は今、毎日、洪水のように、 人の、粋なはからいや思いやり、 ちょっとした心配りに気づけている。 「ありがたいなぁ…」 そんなつぶやきが、わりとしょっちゅう漏れる。 何気ない日常の中で、感謝が出来ている。 …こんな人生、けっこういいなぁ♪ あのつらかった頃、死なずに踏ん張ってよかった。 あのつらかった頃も、私は守られていたのです。 ところで…。 今だからこそ、考えるのです。 人生って、幸せって、何だろね? あなたの人生にも、きっと 『さりげないドラえもん』は登場していた。 通学路で 「あの子、今日もちゃんと学校に来たなぁ」 って見守ってくれていた人とか…。 (当時の私は、話しかけられると 怖くてウザくて、 心の中で「放っておいて!」って思ってたけど、 あの人たちも『ドラえもん』だった。 きっと、私が往来でピンチに遭ったら、 助けてくれただろう。) でも当時の、子供だった私は、 人生を丸ごと救い上げてくれる人を 求めてたんです。 このつらい日々から脱出させてくれる、 魔法使いのような大人を。 …だから、まるで、捨て犬を見つけて、 通りがかりにミルクをやって去っていく人 みたいな、そんな親切には、 全く感謝できなかった。 「そんな事じゃ、このつらい毎日、 どうにもならないよ」 と思ってた。 だから、自力でそこから脱出した。 …そして私は、脱出に成功した。 それは、自分の力だと信じて疑わなかった。 世間に対して、みんなに対して怒ってたから 「誰の助けも要らない! 期待なんかしない!」 って心の中で怒鳴ってた。 …今は、「やっぱ違ったな」と思えてる。 私は、生かされたので生きてこられたのだなぁ、と。 ドラえもんは世間に何人もいて、 まるでバケツリレーのように、 「いよいよピンチ!」という時、 私の目の前に登場した。 そして、「ほんのちょこっとだけ」助けてくれて また去っていく…。 けれども、その連続のバケツリレーによって、 私は救われてきたのです。 今なら、そう思う。そう思える。 いつの間にか、「自分って超~幸運だ!」 としか思えなくなってます。 幸せって、「粋でさりげない心遣い」を ちゃんと見つけられるようになるかどうか? やっぱ、そこなのだと思う。 …そして、『感謝力』は磨ける。 深めることが出来る。間違いなく。 そこも、救いだと思う。
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【スーパードクターなど、ヒーローが抱えるジレンマ。 TVには出てこない苦悩について考える。】
TVで時折、スーパー外科医のドキュメンタリー番組、 やってますよね。 他にもレスキューとか、 人を助ける仕事の人の特集番組。 あれを観るたび、 「格好いいなぁ…!」と、惚れ惚れします~! そして、私だけではなく多くの方が 惚れ惚れしながら憧れの目で、 TV番組を観ているのだと思います。 でも。いつも私は気になって仕方がないのです。 “あの特番には、抜け落ちているものがある。”と。 『スーパードクターが、成功確率の低い 難易度の高い手術を担う。 そして、その先生が担えば、成功確率が上がる!』 そう、それは事実なんだけれども。 これは、「100%の人が 絶対に助かる」 という話ではない。 …つまり、スーパードクターの手にかかっても 助からない人は存在し、 難易度が高くなればなるほど、 「助かる人以上に、助からない人の確率は高い」 わけですよね…。 患者さんのご家族は、 「あの先生ならきっと…!」 という期待を胸に抱き、祈る想いで 手術の時を過ごし、 だからこそ、 ダメだった時には、ひどく落胆する。 期待が大きかったぶんだけ、落胆も激しくなる。 私はいつも、 TVでは決して取り上げない、 「ダメだったケース」を想像してしまう。 そして昔、私の友人が、こう言っていたのを いつも思い出してしまう。 「(家族の)手術が失敗した時、 思いっきり 医師の先生を罵倒してやったわ! 『人殺し!』って 10回は言ってやった! でも、まだ足りない!」 …って。 (この友人の気持ちも、分からなくはないんです。 叫びだしたいような、 やり場のない怒りを、悲しみを、 目の前の先生にぶつけずにいられなかった衝動を。 …「やったらあかんやろ」とは 思いましたけど、もちろん…。) というわけで、ヒーローが抱えるジレンマ。 TVでは映さない苦悩。 「助けたい!」という気持ちと、 「自分には大した力がない…」 という無力感は、ワンセットなんだよなぁ…。 (つまり、「人助けをする仕事に就けば、 必ずセット商品のごとく、『無力感』が ついてきてしまうという事。) 私は、いつもいつも、この スーパードクターの 『無力感』が気になってしまう。 他にも、震災のボランティアリーダーさんの 『無力感』も気になるし、 消防やレスキューの人たちの 『無力感』も気になる。 選挙で落選した、 誠実だけどダメだった立候補者の 『無力感』も気になる。 「いのちの電話」で自殺志願者の 電話相談をしているカウンセラーさんの 『無力感』も気になるのです。 もちろん、分かりやすい「人助け」の仕事に ついていない人でも、 会社を良くしようとしたり、 お客さんや職場の人のために何とか…! と踏ん張っては、 『無力感』に打ちひしがれている人がいる。 家族の介護をしている人もいる。 そういう人も、同じ『無力感』を抱えて 生きている人でしょう。 彼らの『無力感』も 気になってしかたがないです。 全知全能の神ではない、しかし 『人助け』をしたい人たち。 彼らはヒーロー。 そしてヒーローの華々しい活躍を 取り上げる番組ならば、みんな観たい。 けれども、彼らの失敗は決して見たくない。 失敗の存在を、信じたくない。 つまり、『生身の人間』である彼らの 抱える『無力感』は 誰も見たくない、気づきたくない…。 彼らには (神のように)『カンペキ』でいて欲しい。 カンペキだと思い込みたい。 無敵だと…いつでも必ず強いと。 私は相談業をしているので、 時折、人助けの仕事をするかたの 相談を受ける事があります。 そんな時には、カウンセリングルームが、 『ヒーローが仮面を脱ぐ場所』 になるわけです。 『仮面の下の貌(かお)をさらけ出す場所』 になるんですよ…。 ヒーローは、自分の無力さをつぶやき、 うなだれます。 中には、泣き出す人もいます。 いや、泣き崩れる、という表現が正しいかも…。 後悔、悔しさ。 「自分はもっとうまくやれたんじゃないか」 という、自分に対する後悔や、 運命のような、大きなものに対する怒りなど…。 私は、泣き崩れるそヒーローの 『無力感』を前にして、 打ちのめされそうになりながら、 同時に、 その『無力感』の裏側にある、 その人の純粋さ(崇高さ)に触れて、 感電したようになり、 心の中で、合掌してしまいます。 (うまく表現出来ないですが…。 それでも行動し、挑戦し続ける姿勢に、 合掌せずにいられないような 気持ちになるのです。) けれども、厳しい現実が目の前にあります。 「助けたい!」という想いと、 助けられなかった時の無力感は、ワンセット。 ひとたび「人助け」の仕事を 選んだならば、『栄光』だけを 受け取る事は出来ない…。 なぜなら、ヒーローは神じゃないから。 100発100中の成功確率は狙えないから…。 切ないなぁ。 それでも、今日も 現場で活躍する人がいます。 その人は、時に、心の中で泣きながら、 (でも決して涙を見せずに)動いている…。 本当に、すごいと思う。 だから私は、彼らの後方支援がしたいです。 私には、最前線で動くヒーローの役は出来ない。 (そう、ビビッてしまってムリなのです。 そこまでの根性がないのです。 その事を、私は先日、重々に自覚したのです。) ならば、私は後方支援がしたいなぁ。 私と同じような想いの人と集結して、 みんなで、ヒーローを後ろから支えたい。 みんながあと一歩ずつ互いを思いやれば、 世界は一瞬にして変わる。 (…はず!) 私は、それが見たくて仕方がないのです。 …実は私の中にもある、『無力感』。 その無力感をしっかりと噛み締めながら、 今日も自分の持ち場で、なすべき事を なしていきたいと思います。 (来年になったら、 この『後方支援』を キチンと形にしていくつもりです。) つぶやきを読んで下さり、有難う…! この後も、あなたにとって おだやかな一日でありますように…。